Family Story
- Yellow Highlighter
- 2024年12月17日
- 読了時間: 7分
更新日:3月8日

English to follow after Japanese version.
祖母との共通点
わたしは祖母と,ある記念日を共有しています。わたしは1967年10月13日生まれ。祖母は1962年10月13日に亡くなっています。わたしが祖母の命日に生まれたという偶然のようで運命的な事実が,父に初めての娘に母親の名前をつけようという発想を植え付けたのには納得がいきます。というわけで,わたしは祖母の名前をもらいました。
祖母の名は「シマ」と書きました。わたしは「糸真」という漢字をもらいました。その意味について,父の定義によると,糸のようにまっすぐで純粋な心を持った人間になってほしいとの願意を込めたというのです。のちのち,「糸って,常に引っ張っていないとまっすぐにはならないよね」,という疑問をわたしの中に抱かせましたが,この漢字で「しま」と読む人にこれまでの人生でお目にかかったことはないのです。ゆえに,第一印象が強いらしく,すぐに覚えていただけるという利点に恵まれました。
人生のどん底
25歳。わたしは人生のどん底にいました。恥かしながら,いただいた名前を表す人間とは程遠い状態でした。きっかけは,友人を事故で死なせた相手への怒りでした。
高校の交換留学生としてアメリカに渡った友人は,大学でも再び渡米しました。楽しい学生生活を送っているはずであったある日,彼は亡骸として帰国しました。交通事故との知らせでしたが,さらに酷だったのは,運転していた彼の友人は,きちんとした運転免許を持たないまま運転し,事故を起こしたという事実でした。
友人の葬儀は教会で行われましたが,そこで初めて彼の家族が代々続くクリスチャンであることを知りました。教会での葬儀に参列するのは初めてでした。葬儀の最後に,彼の母親が参列者に謝辞と最後の言葉を述べました。「息子が先に逝ってしまったことは非常に残念です。ですが,わたしから皆さんにお願いがあります。わたしの息子を殺したという重荷を一生背負うことになる息子の友人のために,祈っていただけないでしょうか。」
友人の母親のその言葉に耳を疑いました。このお母さんは正気なのだろうか,その人のせいで息子を亡くしたというのに,どうしてそんなことが言えるのでしょうか。
彼女の言葉の意味を考え巡らせるうちに,ある考えに辿り着きました。「わたしはクリスチャンにはなれない。わたしには友人を殺した相手を許すことはできない。彼女のような心を持たなければクリスチャンになれないのだとしたら,クリスチャンになるなんて,わたしには到底無理なことだ。」その日以来,わたしは聖書に真理を見出すことをやめ,日曜礼拝に行くことも,教会に関わるすべてのことを断ち切りました。
転機の訪れ
あの出来事から数年が過ぎた夏の暑い日の午後でした。20代のアメリカ人の女性宣教師ふたりが,東京のわたしのアパートを訪ねてきました。末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師だと名乗ったのですが,わたしはその教会の名を聞いたことがありませんでした。彼女たちがモルモンだと言ったとき,以前,二人組の自転車に乗った宣教師を見かけたことを思い出しました。
彼女たちから,イエス・キリストについて聞きたいかと尋ねられましたが,例の葬儀以来,教会との関わりをいっさい断っていたこともあり,その質問にはためらいました。にもかかわらず,彼女たちの人柄が気に入ったわたしは,一週間後,また来るようにと返答していました。彼女たちは「また来ます!」と言って帰っていきましたが,それは単なる社交辞令であり,まさか彼女らが本当に戻ってくるとは期待してはいなかったのです。ですから,彼女たちが約束の日に戻ってきたときには大変驚きました。彼女たちの誠実さに心を奪われて,わたしは彼女らを家に招き入れていました。
最初の話し合いはとても印象的でした。神さまの絵を描くよう言われて描いたわたしの絵には,雲とそこから出てくる太陽の光の帯が描かれているのに対して,宣教師たちは,あごひげを生やし,髪の長い一人の人物を描いていました。それはイエス・キリストのように見えました。わたしは 「神さまには体があるのですか?」と尋ねました。
彼女たちの返事は,その後一生忘れられないものになりました。「はい。わたしたちは神に似せて神と同じ形に造られたのです。」
わたしが,神と同じカテゴリーであるということに非常な衝撃を受けました。にもかかわらず,わたしが神の子であるという理由には納得がいきました。子犬は犬に,子猫は猫に,神の子どもは神にという図式が成り立ちます。それは,わたしの人生を変えなければならないと思うきっかけにもなりました。
「神がわたしを神の子として見てくださるなら,わたしはその価値に対して無責任ではいられない。」そう感じ,わたしは28歳でバプテスマを受け,末日聖徒イエス・キリスト教会の一員となりました。
運命的な印象
時は1996年のクリスマス。クリスチャンとして過ごした初めてのクリスマスでした。わたしは姉妹宣教師たちと一緒に,近所の人々にイエス・キリストの福音を紹介するという一日を過ごした後に帰宅しました。部屋に入るとすぐに,留守番電話にメッセージが残っているのに気づきました。母からでした。できるだけ早く折り返すようにとのメッセージに,なにか胸騒ぎがしました。母に電話をしてみると,受話器の向こうの声は震えていました。「お父さんがガンと診断されたの。今は入院しているけど,年明けには帰ってくる予定でね。余命は3カ月だと言われた。できれば,新年には帰ってきてほしい。」母の声は泣きはらしたせいで疲れているように聞こえました。
この電話があった日以来,わたしは月に2回実家に帰省し,父を訪ねるようにしました。東京から新幹線で3時間。ある使命感を抱いて父を見舞いに帰りました。イエス・キリストとその憐れみについて,父に伝えたいと思いました。
父がまだ,ガンであることを知る由もなかったその年の夏,先祖の墓参りをした際に,わたしはある強烈な印象を受けていました。「系図を調べたほうがいい」というその印象は否定のできない感覚でわたしの心に迫ってきました。末日聖徒イエス・キリスト教会は,家族歴史,系図探求に非常に熱心です。教会に改宗したばかりのわたしには,家系図を調べる術は皆目見当もつきませんでしたが,その印象に従い,すぐに系図の作成に取りかかりました。
この出来事があってから半年後,父は1997年2月28日に亡くなりました。人は死んだ後も霊として存在し,のちに完全な体となって復活をすることを信じていたとはいえ,父との別れはわたしの心に大きな空洞をつくりました。わたしはこちら側の世界に取り残されたような気分でした。
託された使命
父との最後の訪問の直前,死ぬのが怖いかという質問を父に投げかけました。父の答えはこうでした。「いや,大丈夫だ。両親も兄妹も,あちら側の世界で待っていてくれるだろうし,向こうで迎えてくれるだろうから心配ない。」当時父は,復活についても永遠の家族についても救いの計画についても,知る由がなかったにもかかわらず,キリストの福音の基盤となるそれらの原則について語ったことが不思議でなりませんでした。ただ,わたしには,霊の世界にいる祖父母が父に働きかけ,父が彼らがいる世界を感じるのを助け,これらの真理を父の心に植え付けてくれたのだと感じずにいはいられませんでした。これはわたしが会ったことのない祖母に特別なつながりを感じた瞬間でもあり,半年前,祖母のお墓の前で感じた強烈な印象を呼び起こし,あれは祖母の仕業であったに違いないと確信するきっかけともなりました。
わたしのキリスト教への改宗についても,死期迫る父への慰めについても,祖母を含む先祖たちが大きく関わってくれたと信じています。先祖たちが,わたしをイエス・キリストの福音へと導く手助けをしてくれたと感じています。父が現世と来世を隔てる幕を通って先祖の待つ側に行ったときには,先祖が幕を超えて,わたしのそばにきてくれたのだろうとも感じました。わたしがこの末日聖徒イエス・キリスト教会に導かれた理由は,家族と先祖の繋がりを後世にまで保ち続けるためであり,わたしはその役目を託されたと信じています。


































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